2011年12月11日日曜日

世界中の人々の平和的生存共存、紛争回避、人権保障、そしてあらゆる生き物の平和的生存の為に活躍する尊敬するすばらしい国連だからこそ、まったなしの地球温暖化だからこそ、地球温暖化」対策の方向転換を!「地球温暖化」問題は二酸化炭素削減という意味のない仮説から離れて具体的温暖化への対策つまり海抜上昇地域の移住や居住地産業地農業地確保などに方向転換を!人類だけでなく地球上の全生物の死を結論付けるだけの「地球の為の」二酸化炭素(全ガス蒸気類)削減洗脳の怖さ (国連環境部門は目覚め「二酸化炭素削減」の狂気をやめ、地球温暖化の事実に直面した具体的対策を)




どのいのちにも必要な呼吸ででてくる害悪でない二酸化炭素。なのに「ガス蒸気類全て「なくさなければ」温暖化はとまりません」の大嘘。地球から二酸化炭素「完全になくさなければ」は全生き物の死を意味する事理解している人どのくらい?二酸化炭素(全ガス蒸気類)「削減」は狂気の詐欺洗脳だ。
二酸化炭素削減「仮説」の嘘が怖いのは、二酸化炭素削減してもしなくても自然災害は地球を襲うのに、自然災害が起こるたびに「ああ二酸化炭素(ガス蒸気)減らしてさえいれば」といわれ豪州ではらくだを殺戮欧州では森林破壊の動きも。国連は自然災害地球温暖化へ直接対策基金移住を含む対策進めるべき
二酸化炭素やガス類減らしても減らしても自然災害減らなければ地球上のあらゆる生き物をどんどん殺すしかないという狂気の結論になるようになっている「地球温暖化」(仮説)の異常。国連の環境部門は詐欺にかかってはいないか?地球温暖化はとまらない。
なぜか?それは、これまで私のブログ(diary with biscuit) などやツィートにもずっと書いてきたが、地球の異常高温期低音期は地球の周りにたまったガス類蒸気類とは全く無関係におきている。にもかかわらず、今起きている地球温暖化(厳密に言えば主に北極南極の高温期の長期化だが)だけが地球の周りにたまっているというガス類蒸気類による温室効果であると結論付けられるのだろうか?
しかも、あらゆる地球上の生物のほとんどが生きている限りにおいて必ず排出される二酸化炭素を主に狙い撃ちにしているところに「地球温暖化」説という仮説のしかも「二酸化炭素削減」の嘘の怖いところが有る。実際地球恩田仮説という仮説はどこまでも無根拠に地球の温暖化を地球の周りをとりまく蒸気類ガス類の増加を原因とし蒸気類ガス類を減らすことで地球の温暖化が防げるという説であるが、この説の最大の矛盾は次に書くがその最大の怖さは、蒸気を減らしましょう、ではなく、地球上に生きている限りあらゆる生き物から発生する二酸化炭素にまず商店を置いて削減させようというところどれだけ「削減」すれば地球温暖化がとまるかは実験室レベルでも立証されていないところだ。
しかも、なによりもいいかげんな仮説であることは、「地球温暖化が蒸気ガス類の層が温室のように地球を温めるからだ」という仮説はこれまでの地球の歴史的科学的事実に反しているのにもかかわらずなんら明確な新発見となるような証明はない上に、たとえその「仮説」を認めたとしても、これまで地球上周囲にたまった上希ガス類を取り去る研究をしないで、地球上の生き物から排出される生き物に不可避な二酸化炭素やあらゆるガス蒸気類を減らすという方向に議論の方向が行くところの矛盾不合理性だ。地球を取り巻くガス類蒸気類がもしも万が一これまでの地球上の科学的歴史に反して原因ならばそれをとりさらないことには既におきている地球温暖化状況を停めること改善することはできないはずだからだ。
しかも「二酸化炭素削減・地球温暖化(仮説)」の「あらゆる蒸気ガス類削減しなければ地球は水浸し」の嘘はちょうどいんちき詐欺に似てる。どれだけの蒸気ガス類を削減できれば地球の温暖化は亡くなるかというのは実際はぜんぜん明らかじゃない。どこにも上希ガス類がなくなれば温暖化がとまる証明はない上全ガス蒸気類なくすということは全生物(森林含め)や海水全ての死を意味する。治らない病の患者に「あなたはてかざしにこなければ死ぬ」といわれ死ねば「手かざしにこなかったから」といわれ[手かざし」にいって死んだら「手かざしが「まだ量的に」足りなかった」からといわれる。もしも手かざしにいかずに万が一科学的医療的治療が成功して死ななかったら多分こういわれるのだろう-「そもそも死ぬような病気じゃなかったんだ」と。
私は絶大なる国連支持者だが、ことこの「地球温暖化」問題に対するアプローチと「生物多様性」と称するアプローチについてだけは国連の環境部門は「地球温暖化」というかなり地球上の科学的歴史に反するのにまったく根拠がないに近い「仮説」のレトリック詐欺洗脳に引っかかってしまっているのではないか大丈夫かと心配だ。しかも二酸化炭素削減洗脳は欧州の原発追い込み原発正当化となっている。


地球温暖化に備えた国際的取り組みとは、移住先の選定などの具体的なものであるべきだ。


また、いわゆる「二酸化炭素削減」でここまで進んできたかのように見える自然エネルギー化は実際は約50年後の石油枯渇に向けられたものだ。
「二酸化炭素削減」洗脳からとかれてもなお一層、
今後も地熱太陽光風力バイオ研究と、送電技術、
それまでの間も電力を安定供給するための石油石炭利用および石油精製インフラを下げずに安価に安定的に電力を火力で、も、供給するための技術を世界中で共有しあいさらに発展させることこそが、国連に必要な枠組みであるはずだ。


生き物全てから永久に輩出される二酸化炭素を含む全てのガス類蒸気類削減には
なんら意味のない、無駄な予算だ。


「地球温暖化」仮説(洗脳)が人類と生き物の破壊原発の正当化という点も恐ろしいところだ。
また以下の点についても既に自分のブログ「diary with biscuit」にずっと書いてきたが、 「生物多様化」という言葉に隠された、多様性破壊のいんちきレトリックがある。世界中のあらゆる動植物が国境を越えて様々に進化適応してきた。国別に生態系というのはそもそも変な話だ。地球レベル生態系を保護の観点から守るのが生態系保護の意義だ。
英一部では外来種殺し「正義」とする狂気の「環境派」を[正当化」生物多様性動物殺戮エクストリーミスト正当化詐欺。英国では幸い動物愛護の行政刑法法で逮捕できたがそれでも怖い事実。全生態系レベルでは赤鼠灰色鼠同じ。「地域」話しずらし外来内来わけていたらあらゆる生き物人類の進化もなかった。
たとえば外来種ミドリガメが池に捨てられその結果池の水草や小生物がたべられてしまうという状況は、「外来種」ミドリガメの問題ではなく、外来種であろうとなかろうと、当該被害の出ている池に見合った量の動物生物であるかどうかのもんだいとむしろ関係が有る。内来種であろうとなかろうと、池の大きさや藻や
小動物の量やその組み合わせがあわなければ、国内種同士でも殺し合い食い合い藻の食べすぎなどはおきることだ。海水魚だってたとえばアマゾン地域地域内の公園でアマゾン地域種のピラニアとアマゾン地域種の小動物を一緒に入れたら同じことが起きるだろう。外来種か内来種かは関係ない。
本来ミドリガメを放つべきでない池にそして放たれることが予定されていない池にミドリガメを放つ無知な人たちが多いことそのものが問題なのだ。それはしかもミドリガメを地元種とする国地域でも同じことだ。つまり国内種かどうかは関係ない。この問題は最初輸出入の船の底につく虫類が輸入先で繁殖し輸入先の動植物を駆逐する勢いとなったことから発生した(2003年ごろから持ち上がった)が、この問題は外来種だからという話に論理の土俵をずらされたからおきている。当時からずっと言っていることだが、この問題は、輸入先の生物を駆逐しているということ以外には、地域の環境のどのような点に具体的な問題が出てくるのか、という具体的な問題性にはかけていた。例えば毒蜘蛛が輸出入で広がることによる問題というのはその予防つまり港や飛行場で毒蜘蛛が発生しないようにすることで対処された。それだけの問題だった。国内でも有る地域へ行くと毒蛇がいるからといってその毒蛇を駆除するのではなく、毒蛇を車に乗せない飛行機に乗せないという対処がとられてきたはずだ。ところが、「生物多様性」と称する多様性を殺戮までして「維持」と称しながら事実上国内外というわけ方で国内外あるいは地域内外での「外来種」を排除するレトリックは、とにかく地域にある生物以外の繁殖を認めないという排他性の下にその理論が成り立っている。が、そんなことをしていたら、先ほども書いたが人類もあらゆる生き物の発展進化もなかった。その中で生き物として勢力を伸ばしてきたのが類人猿の進化形人間であり、現存するすべての生き物だ。つまり「生物多様性」は「多様性」といいつつ地域独自固有種の「保護」を逸脱し、「保護」の為の地域固有種以外の具体的現実的排斥をその手段としてすすめることで、排斥の「正当化」をレトリックで実現することで、当該各地域の地域生物の多様性を明らかに破壊している。
生物の種の多様性を地域固有種の保護に求めるというのはレトリックというよりも本来の多様性の言葉から逸脱している。実際に行われていることは、地域固有種の保護であり、そのためにその地域に存在する種の多様性・多様化を犠牲にするものだ。実際に生物の多様性を論じるならば、外来内来種とわずあらゆる生物が国境を越えて繁殖することはこれまでの地球の生物進化の当然であり、一方、地球の移動手段の高度な技術向上発展によりその国境越えが頻繁であるがために地域固有種が絶滅に瀕するような場合には絶滅寸前地域固有品種をその地域固有種にとっての天敵が(比較的)少ない他の地域自然環境で保護していくおよび研究室動物園などで保護していき地域固有主としての歴史的事実を未来に残すという種の保存という手法しかありえないだろう(以前も書いたが)。
にもかかわらず、地域固有種の保護の為に外来種を駆除するというあり方は地球の生態系というレベルから考えると却って本来の多様性を破壊することになりかねない。それは、地球上の移動手段の高度な技術的進化という地球的事実と人類と科学技術の進歩を否定し、地球としての自然な進化の形をきわめて不自然にゆがめる異常な異様なものだといえる。
「生物多様化」は実際は事実上の多様化破壊であるレトリックであるだけでなく、言葉の意味と行われていることの正反対から詐欺洗脳といえ、国連として取り組む方向というものを、人類と地球の進化に逆行しない形での取り組み研究へ修正されるようお願いしたい。地域固有種の種の保存ということであればこれまでも行われてきた。し、毒を持つ生物が国内外で車や飛行機で広がることに対し、一定の範囲で予防するような作業、具体的に人類の生命に科学的勝つ客観的に害毒の有る毒蜘蛛や毒蛇などの駆除がそもそもの発生地で行われるあるいは移動手段への侵入を食い止めるなど具体的な予防策が講じられるだけで十分であったはずのことである。
日本の西洋タンポポも日本タンポポもどちらもタンポポであり、今後未来の日本にどちらが増えるのかは、その種の強さの問題であって、本来的に人間が大きく手を加えるものではないのではないか?生物がどこに根付くかは国境とは関係ない。
それでも、種の数という意味で日本タンポポという種が消えてしまうのは多様な主を減らすことになるのであるから、先ほども申し上げたように移植するなり、日本タンポポに安全な地域での繁殖をしていくことが本来的な意味での多様性保護だ。西洋タンポポも日本タンポポも有る日本であって何も問題ない。
が、日本に西洋タンポポがあるということも多様性である。
日本から西洋タンポポを駆逐するということは日本に見られるタンポポの種類を減らすことになる。それこそ多様性を損なう。
つまり種の数という意味でどのタンポポも減らすべきでないし駆除するべきではないのだ。そして日本で西洋タンポポが加速的に繁殖しても、駆逐するべきものではない。日本タンポポにとって生育しやすい地域への移植や繁殖、研究室や植物園での日本タンポポ地域を作ることでの保存を行えばいいだけだ。
日本タンポポだって西洋タンポポだって同じ生き物であり、どちらが生育性が強いからどちらが地域固有種だからって、駆逐される理由はどちらにもない。
種の保存の問題であり、どちらの国でどちらのタンポポが広がりやすいか早く広がるかを人間が勝手にいじることは却っておかしなことになる。生物にとって国境など関係ない。人間が勝手に作り出した国境によって左右されるのはおかしいのではないか?
この矛盾はたとえばふたつの国がひとつになったらその片っ方で昨日まで外来種だったタンポポが内来種となり、内来種同士の生育性能の違いによる単なる自然の淘汰と淘汰絶滅危険種保護の問題ということになるが、別の国のタンポポならお互いの国で駆除しあうということになるのでは生物を大切にするという根本から本来的にかけ離れた逸脱であり、西洋で日本タンポポを日本で西洋タンポポを駆除しあうつまりタンポポという生物を殺す理由を両方に与える、異様な狂気の「正当化」レトリックであり、生物を大切にする基本とは正反対の「論理」なのにあたかも生物を大切にするかのように扱われているのは大変に危険なことだ。
国連には「地球温暖化」「生物多様性」に対する予算を削減し、地球温暖化によって海抜上昇で住めなくなる地域への具体的警告や移住先の選定、自然災害予防技術研究、自然災害被害国へのこれまでとは規模の違う大型基金の恒久化、食糧難を引き起こす自然災害異常気象予防と警告の技術研究と実践、異常気象による基金などに備えた食料備蓄自然災害救助のための救護復興国際インフラ組織の常設化などが緊急に望まれる。
また生物多様化というならば、固有種の保護移植をすすめるべきでありこれまでの生物固有種絶滅種保護とあまりかわらない。
自然災害異常気象飢饉食糧難などへの国際的基金国際的枠組みの恒久化具体的な地球温暖化による移住などの具体的問題解決に国際組織国連ならではの人権保障の為の組織運営と予算配分をお願いしたい。


世界中の人々の平和的生存共存、紛争回避、人権保障、そしてあらゆる生き物の平和的生存の為に活躍する尊敬するすばらしい国連だからこそ。


(上記一部本日2011年12月11日ツィッター分に加筆)
また拙ブログdairy with biscuitにこれまでこのテーマについて何度か書いてきていますので私のこれまでの説はご存知の方も多いかもしれません。こちらではこれまでより二酸化炭素削減という仮説に対する批判を深めております。また「生物多様性」というレトリックに対する批判もさらに強めております。)